1月19日(土) 快晴

スカッと気持ちのいい晴れ模様。気温もいつもより暖かく、コートを着ていると暑く感じるほど。午前から用意をして、水道橋で人を待つ。

私は時間の感覚が壊滅的なので、待ち合わせをすると早く着きすぎるか遅刻してしまうかのどちらかしかない。遅刻するよりは早く着くほうがマシなので、いつも早め早めに準備をするようにしている。幸い、人を待つのは好きだ。来るとわかっている人なら、何時間だって待っていられる。

今日は大学のお友達のさんぽぽたんとランチ。前日に一日の食事代が500円しかないんだけどどうしよう、と相談したら竹花さんは500円出してくれたらいいよ、と男前な返事をくれた。ありがとうございます(泣)。さんぽぽたんは笑顔がキュートな女性で、人当たりがよくて明るい。表情がころころと変わるので、話しているとなんだかぼくも楽しい気持ちになってしまう。これまで修論の追い込み中だったので声をかけるのを遠慮していたのだけど、久しぶりに会うと眼鏡をコンタクトに変えて垢抜けた印象になっていた。こちらのほうが可愛くて本人の雰囲気に似合っていると思う。これから社会人になる大人の女性、といった感じ。

ごはんを食べるのは久しぶりだったので、なんとなく話題の候補を念頭においておいたほうがいいかなと思っていたけど、会ってみるとそんな心配は杞憂だった。

友人と会うときはどんな店でも構わない、というのが私のスタンスで、ごく普通のファミレスで他愛のない話をしながら駄弁った。これから会社の同僚となる人たちといまいち話題が噛み合わないという話、「常識」の話、外国語で美術鑑賞について語るということ、アルバイトの話、デパコスの話、等々。異なるバックグラウンドを持つ人同士は、相互に関心を持て合えないと、会話が成立しづらい、ということに集約できる話だったかな、と思う。そんな中でも海外経験が豊富な人とは、比較的話が合いやすいらしい。これは私にも少し実感できる話だった。もう一つのコアは収入と仕事のライフワークバランスについて。仕事についての考え方を聞きながら、自分の考えも話すことで言語化できたかなと思う。共通するのは働かずにお金が欲しい、ということ。笑。投資について、私ももっと真面目に考えたほうがいいのかもしれない。

私にとってさんぽぽたんは、苦労しなくても間が保つ人で、おしゃべりしていて楽しいし、心地いい。何より明るい。人徳。最近プライベートで少し落ち込んでいたのだけど、他愛のない話をしているだけでみるみる気持ちが晴れていったので、さんぽぽたんの笑顔に救われました。近況が聞けたのも嬉しかった。ありがとう。

さんぽぽたんと別れて、少し早い目に職場へ向かう。しかしハッピーな時間はそう長くは続かなかった。今日はお店でちょっとした事件があった。

一日をハッピーな気持ちで終えられなかったことは悲しいけど、でも今日考えたことを忘れないために、日記に書き記しておこうと思う。

結論から先に言うと、私のレジ番でマイナス五千円の違算を出してしまった。原因は悪意の客による釣り銭詐欺。監視カメラの映像を確認して、私は常習犯だと思った。

犯人の手口をざっと書くと次の通り。千円未満の会計で一万円札を出して、五千円札1枚と千円札4枚を貰う→立ち去りながら、店員が目を切った隙に素早く五千円札をポケットに入れる→そのままUターンして次の客を通しているレジに割り込んで「五千円札を貰っていない」と騒ぐ、というもの。

再発防止策としては、釣り銭トラブルが発生したらオペレーションを停止してでもその場でレジ検をするか、お客さんの同意を得て監視カメラの映像を確認するしかない。自分の判断でレジからお金を渡してはいけない、というルールを徹底すること以外に予防策は無い。釣り銭詐欺犯は、あの手この手で巧みに店員を騙してくる。私もすっかり騙されてしまった。話を聞いてしまってはいけないのだ。一瞬の躊躇につけ込まれて、勢いでまくし立てられてしまう。

私は自己肯定感が弱いので、自分のオペレーションの正確さを自分で信じることができない。「お客さん」が本当に困っているのだと心から信じてしまったし、監視カメラの映像を見るまで騙されたことを疑ってもいなかった。でもそこに映っていたのは、誰が見ても「私がまんまと騙されてしまったこと」が一目瞭然の映像だった。トラブルを早急に処理して次の客を通したい、という一瞬の判断の躊躇も、犯人にとっては格好の隙でしかなかった。お客さんに対する信頼を前提にした判断がこのような形で裏切られてしまうのはかなしい。何より、これから同じような局面が発生したら、はなから客を疑ってかからないといけない、ということが。警察に被害届を出せば受理して貰えそうな物証が揃っていたけど、店長の上司による会社判断で、届出は出さないことになった。犯人が野放しになることが私には許せない。

「人を騙して、お金を奪い盗る」というのは、それは純粋な悪ではないだろうか? そこには人に対して向けられた明確な悪意がある。「こいつならちょろまかせそうだからやったろう」という判断で、私は悪意を向けられたのではないか。「尊厳を奪い、掠奪してよい相手」としてロックオンされてしまったのだ。これは冷静に考えてみるととても恐ろしいことである。釣り銭詐欺犯が快楽殺人者だったとしても、全く同じ理屈が成り立ちうる。人は脈絡なく強い悪意を向けられ得るし、全ては巡り合わせなのだ、ということがわかるとぞっとして震えてしまった。そんな「悪」を、うちの会社は経営合理性の観点から野放しにするという。被害届を出すのにも聴取があり、人員を割かれる。被害額に対して損耗するリソースが割りに合わない、という判断になるらしい。

経営合理性という観点はオペレーションにも現れている。一万円札が入ったとき、二人レジによるダブルチェックの体制を敷いていれば、客の問い合わせに対して「五千円札はお渡ししています」と即答できる。レジ要員の質に依存しない、システムによる防御である。これに対して、一台しかないレジと一人のレジ番というシステムには脆弱性があり、リスクに晒されているといえる。そこに一定確率でオペレーションミスや悪意の詐欺犯による損失が発生すると仮定する。このとき見込まれるn期の損失額が、レジ要員を一人増員するコストを下回るのであれば、「一人レジ」には一定の合理性があるといえる。しかし、そのことは悪意の詐欺犯を野放しにしてよい理由になるのだろうか? 犯罪者は司法によって裁かれるべきで、犯人を野放しにしてしまうような合理性の追求には倫理的な問題があると考える。

改めて、「人を騙して、お金を奪い盗る」という観念は純粋な悪である、という問いを立てたとき、私はアプリオリな善性を前提としていることに気がついてしまった。私は行為によって生じる害悪についてではなく、もとの善悪の問題を考えてしまっている。ユーティリタリアニズムを研究している院生としては、自分の根幹を揺さぶられる事態である。仮に釣り銭詐欺のシチュエーションを幸福計算の観点から説明できたとしても、私が潜在的な悪について確信していることをユーティリタリアニズムの観点から基礎付けることはできない。私は私の中に生じた悪徳への強い嫌悪感を、一体どのように考えていけばいいのだろうか?

研究の方向性がまた袋小路に入ってしまったような気がする。