Yについて その2

Yについて - 日記 の続き。

 Yについてどれだけ書いても書き足りない気がするのは、おそらくYとの関係を「口外しないで欲しい」と言われていたからだ。瑠花ちゃんの現場で出会ったYとは、大学も別で、共通の知人もおらず、日常生活での接点もない。肉体関係をもってからは、互いに互いにしか秘密を打ち明ける相手のいない、私とYだけの閉じた「共犯」関係に閉じ込められてしまった*1。それは、「初めて」の性体験で根本から身体感覚が変わってしまい*2、混乱の渦中にあった私にとって、過酷な環境であった。私は自分の混乱を誰にも打ち明けることができず、そのままずぶずぶとYに依存していった。

 私はYとの性体験で得た恐怖と快楽を「言語化」せずには飲み込めなかった。それを文章にしてYに送りつけてしまったことが、Yの中に生理的な嫌悪感を植え付けてしまったのだといまでは理解している。ただそのまま「流せば」良かったのだ。でもそれができなかった。Yが生きる世界の「常識」は、私にとっては常識ではなかった。私には、自分の身体感覚を根本から変えてしまった性体験を「Yと共有する」必要があった。その異常な熱量が、Yの中で私に対する「気持ち悪さ」を生んでしまったのだと思う。

 そこから先は地獄の日々だった。Yに拒絶され、誰にも相談できず、精神の変調をきたして、仕方なくYに「助けてもらう」。そこにはYが望まないセックスも含まれていた。私の欲求を断りきることができずに流されてしまうYは、「あなたと私は相性が悪い」と私に向けて言い放った。そのことに私はとても傷ついた。じゃあいったい誰に「私の混乱」を打ち明ければいいの? 私は自分の中に生じた抑えのきかない性欲と、Yの体を渇望する肉欲と、空がいまにも落ちてきそうな罪悪感で、文字通り「混乱」していた。被害者意識のほうがまさって、Yのことを考えていられる余裕なんてなかった。その不毛な日々の中で、知らず私はYの尊厳を陵辱していたのである。

 そして、いまも現在進行形でYの尊厳を犯し続けている。

Yについて - 日記

上の日記の中で、私はYを裸に剥いた。丸襟のワンピースを脱がして、静かにベッドに押し倒したあの日と同じように。一糸纏わぬYの裸体を、上の文章を読んだ読者の衆目の下に晒している。思うに、「書くこと」は所有することに似ているのではないかと私は考える。現実の一部分、瞬間を切り取って「写しとる」ということは、それを「所有する」ということだ。

Aについて - 日記

この中で書いた「2枚の写真」も、その所有行為と通ずるものがある。一方で、私の表明した考えと矛盾するが、写真とは違ってテクストの読み手が想像するYの裸体は、私が識っているYの体、厳密に言えば「私の想起するYの体」とは一致しない。そこにテクストの綾がある。

 私がYの尊厳を護りながら「表現する」には、Yに関する描写はフィクションでなければならない。Yを匿名化し、同時にキャラクター化すること。そのことによって、Yに絶縁されたいまも、私のなかでYは「キャラクター」として生き永らえる。それがトラウマを克服する唯一の方法なのだ。

 繰り返しになるが、私はYとの肉体関係を「口止め」されていた。互いに限界になって、「もう他の人に相談してもいいですよ」と言われてから、少しずつ人に語り始めるようになった。それから4年経ったいまでも、あのとき「人に話せなかった」という思いが、私に筆を取らせ続けている*3。どうしてもそのときの無念を昇華することができない。

 Yとの関係は「秘密」にしなければならなかった。それゆえにYと一緒に撮った写真は一枚もない。普通にピースをして笑い合うツーショットセルフィーを撮りたかったなぁ…。どれだけ言葉を尽くしても、時間はもう巻き戻らない。

 Yと一緒に写真を撮りたかった。悔やんでも悔やみきれない。

 

(続き→)Yについて その3 - 日記

*1:余談だが、「瑠花ちゃんに打ち明けてしまってもいい?」とYに訊いてみたら、冗談じゃない、「絶対にやめて。」と激怒されてしまった。流石に反省している。

*2:自分史のなかで、「それ以前/それ以後」と位置付けてもいいくらい、自分の身体感覚が180°変わってしまった。また書けることができたら、なにか書きたい。

*3:きっと私は、私のゴッドである瑠花ちゃんに"告解"したいのだ…。オー・マイ・ゴッド。