Yについて その5

Yについて その4 - 日記 の続き。

 その後、Yとは何度か肉体関係を持った。そのたびにYとの関係は悪化していった。そして関係は唐突に終わりを迎える。「初めて」の日以降、セックスを欲し続けた私と、性欲の対象としてしか見られていないことに自尊感情を傷つけられたY、というすれ違いの構図が、破滅的な破綻を招いた。今回はそのことについて書こうと思う。

 Yは男性との肉体関係について、「曖昧さ」を美徳とする人だった。一度肉体関係をもった相手に対して、会ってするのか、しないのか、その場の雰囲気で決まるようなセフレ関係を理想とするらしかった。勿論そこには、Yが気分でないときは、スッと性欲を自制できるような紳士的配慮が求められる。肉体関係が続いていることさえも、曖昧さの霧のなかに溶けて霧散していくような、そうした友人関係を望んでいた。自尊心が元々低かったYにとって、自分の体を男性の友人に差し出すことは、そのとき嫌でなければ「たいして重要な事柄ではない」ということらしかった。当時の私には、その感覚が根底から理解できなかった。

 一方で私は、自分とYの関係が「曖昧さ」のなかに置かれることが不安で我慢ならなかった。「あれはいったいなんだったのか」と、白黒きっちりつけたい、という立場だった。私が経験したYとの性的接触も、性的イメージの洪水がぐちゃぐちゃに絡まりついて、「混乱」を解きほぐさないことには、どうすることもできなかった。そのためにはセックスを「言語化」し、当事者であるYと「共有」する必要があった。その帰結として、セックスの感想を文章化して「膨大な文章」としてYに送り付ける、という愚行に及んでしまった。ある程度の人生経験を積んだいまならわかる。セックスした相手から長文の感想メールが送られてきたら普通に気持ち悪い。たとえその夜が心地よい時間だったととしても、一瞬にして生理的嫌悪を抱きかねない。そうした「当たり前」の感覚が、当時の私にはわからなかった。

 そのことについて、Yは「表現しつくしてしまうことが悪い」と言った。そして「たびたびセックスを求められたこと」および「自分が性欲の対象としてしか見られていなかったこと」が嫌で嫌で仕方がなかった、と詰問された。たとえ好きな人に性欲を抱いていたとしても「相手に伝えずに性欲を処理すること」と「嫌がっているときには欲情を自制すること」が「愛情表現」なのだ、というのがYの意見だった。そしてYにとっては恋愛感情と欲情することはイコールで、「恋愛感情を持てないあなたに対して、セックスで欲情することはできない。ごめんなさい」と言われた。このことは決定的に私の男性性への自尊感情を打ち砕いた。もはや、Yが私に言った通り「相性が悪い」としか言いようがなかった。事後の寂しさをバーバルなコミュニケーションで埋めたい私と、ノンバーバルな機微を正しく読み解くことが肝要だと考えるYでは、「セックスの相性」を差し引いたあとのコミュニケーションにおいても、相性が悪かった。肉体関係をもってしまったことで、Yとの友人関係には修復不可能な亀裂が生まれてしまった。

 一般に、こうしたことはセックスするまで予見することが難しいのだろうか? どれだけ丁寧に信頼関係を積み重ねていっても、「セックスすること」で壊れてしまうのなら、もう今後一生まともに恋愛できそうにない。セックス以前の、”遠い対象”を追いかけるだけの消極的な恋愛しかできない。「壊れてしまうときは壊れる」というのが真理なのだとしたら、友人関係が「なんかいいな」に発展するような恋愛は、私には一生できないかもしれない。せめて、これからセックスする人がいるとしたら、その人を傷つけないようなセルフコントロール術について熟考することが、まだ生産的な営みだといえるだろうか?

 Yとの「初めて」の日から一週間、私はセルフコントロールからは程遠い「混乱」の渦中にあった。まず、実感したのは性欲の異常な高まり。すべての性的表象が、私に殴りかかってくるように感じられた。ふだん、性嫌悪から敬遠していたAVも、この時期はたくさん見た。AVをみるだけで生々しい感覚がよみがえってくる。フェラチオのシーンでは、まるでいまYに性器を舐められているかのようにゾクゾクとする感覚がよみがえった。そうして、AVを見てする自慰の快感は、三倍増しのように感じられた。それでも、AVを見ることで何故か「傷つくような」ダメージを受けていることが、自分でもわかった。その正体がわかったのは、Yとの二回目の夜*1を経験して、Yへの恋愛感情を自覚してからである。

 肉体関係をもってから、Yのことを好きになってしまった。Yへの好意を自覚してから、他の女性の裸体を見ることが苦痛になった。映像でも想像でも、他の女性の体を想起すると、引き裂かされる思いがした。「好きな人でしか抜きたくない」。その頃の私は、Yの体しか見たくなかった。そのことが、Yへの直接的な性欲の表明へとつながり、Yの自尊感情を傷つけたのである。Yの肌の色が「珍しかった」ことも、セルフコントロールにおいては災いした。Yの体格、Yの肌の色をもつAV女優は皆無に等しかった。AVで自分を騙しながら欲望を代替することは、不可能なように思われた。私の場合、不幸なことに「好きな人に誠実でいること」と「性欲の対象であること」はイコールだったのである。好きな人を傷つけないためには、自分のこの性的指向にどうにかして折り合いをつける必要がある。性欲を表明しないようにしつつ、しかも自分が傷つかないように余分な性欲を処理しなければならない。これがどれだけ難しいことか、ご想像いただけるだろうか。私以外の人にこの苦痛を上手く伝えられる自信がないし、分かってもらえるとも思えない。自分の好意が一途であればあるほど、その人のことを考えて抜く以外に自分を保つ方法が無くなってしまう。生涯、このことにどうすれば折り合いをつけていけるのか、考えていかなければならない。

 Yと「初めて」肉体関係をもってからおよそ半年間、Yを含め私は多くの人々を傷つけてきた。目を覚まさせてくれたのはAの存在*2だ。自室でAと二人きりになって、Aの前で最後の最後まで自分の性欲のコントロールに努めたにも関わらず、結果的に加害してAを傷つけてしまったことが私の目を覚まさせた。Aのした”ある行為”が私に「性的同意」であると勘違いをさせた。それでもYが忠告したように「嫌がっているときには欲情を自制すること」を守ることさえできていれば、途中で「勘違い」に気づくことができたはずだ。Aとの出来事は、とてもでないけど「Yについて」のように赤裸々には書けない。Aに対しては、私は秘密を守る義務があると感じている。このことは、書ける範囲のなかでまた機会が訪れたら述べたい。

 最後に、Yとの性体験を経てよくなったことも書き残しておこう。そうでないとYも私も浮かばれない。まず、女性に対して物怖じしなくなった。ごく軽いスキンシップへの恐怖心もだいぶ薄らいだ。それでもまだ距離の詰め方の近い女性に対する若干の苦手意識が残ってはいるが。また、女性と比較的仲良くできるようになった。自分の性的指向が女性全般ではなく、「好きになった人」に限定されることがわかったためだ。そこには男性が含まれる可能性だってある。「一般の女性を性的な目で見なくなったこと」と、「『受け身』の立場を感覚的に理解したこと」で、女性の話に共感を示せる機会が多くなった。これまで理解の埒外にいた「異性」という存在ではなく、一人の人間として女性のことを見られるようになった。そして女性の話すことばが自然と「自分のこと」のように感じられるようになった。女性が身を置く立場、考える内容、思考の展開について一種の共感性を得たのかもしれない。

 反対に男性への共感性は損なわれた。端的にいえば「男性のホモソーシャル」を共有することができなくなってしまった。語弊を恐れずにいえば、同性/異性の感覚が反転してしまった。女性のほうをより「同性」だと感じ、男性のことを「異性」と感じるようになった。この感覚は上手く説明することができないし、なぜ生じたのかもわからない。ただ、肝に銘じて置かなければならないことは、シスジェンダーヘテロセクシュアルの女性にとって、私は「男性である」ということである。私のセクシュアリティがいかに複雑で、女性に親近感を感じていても、目の前の女性にとって私は純然たる男性だ。そのことは決して忘れてはならない。「危険な男性」として警戒されるような振る舞いは、意識的に避ける必要がある。

 「女性恐怖症」だった私*3が女性とごく普通にコミュニケーションがとれるようになった反面、共感ベースでしか話が展開できないために互いに恋愛対象として発展していく、ということが無くなってしまった。これはこれでいいことなのかもしれない。しかし、私はこれから先どうやって「恋愛」していけばいいのだろう?