12月20日(木) 晴れ

 他人の感情がわからない。今日もそのせいで人を怒らせてしまった。

 T井さんである。人当たりは悪いが、毎度指示が的確で状況判断も速いので、彼がリーダーだと仕事が早く終わる。業務上の注意を受けるときは、いつも彼の言うことに一定の理があったので有難くお言葉を拝聴していたのだけど、今日は度を超えてやけに突っかかってきた。虫の居所が悪かったのだろうか?

 詰められた直接の原因は「返本作業が遅い」で、これはわかる。でも「他人に迷惑が掛かるのとは思わないのか?」と言われたのがよくわからない。日によって作業量が異なるため、どれくらいの時間がかかるのかは状況次第で、作業が押して他の人の作業に支障がでてしまっても「お互いさま」だと思っていた。そこがT井氏には気に入らなかったらしい。

 「申し訳ないと思わないのか? 一言俺に謝るべきでは」と詰られてしまった。どうも私は「自分が迷惑をかけられた」と思えないことに関しては「他人に迷惑をかけてしまっているかもしれない」という発想自体が湧かない(ということに気付いた)。それに「申し訳ない」とも思えないので、申し訳なさそうな顔をうまくつくることができないのだ。心にもないことを言っても言葉が空を切るだけなので、正直に「私とあなたは違う人間なので、あなたの言うことが理解できません」と言ったら、余計に怒らせてしまった。他人の感情を察せられるように、善処していきたい。

 ところで、人はどんなときに激昂するのだろうか。普段、人に対して腹を立てることが殆どないので、裏を返せば「どういう行いが人を苛立たせるのか」がよくわからない、ということになる。想像で語るけど、一つは「自分の自尊心が傷つけられたとき」だろうか。他人にないがしろにされたと感じたとき、人は激昂する……と言われれば、なんとか理解できそうな気もする。しかし、それにしたって自分の自己肯定感を他人に仮託するのはいかがなものか。所詮、他人は他人なのだから、他人の言動にいちいち傷ついていたら身がもたない。他人を支配しようとして軋轢を生むくらいなら、人当たりよく振る舞って人望を得たほうがまだ建設的である。

 私は純粋に気持ちよく過ごしてもらいたくて人当たりよく振る舞うことを心掛けているので、他人からの評価が得たくてそうしているわけではないのだが、愛想の良さを意識すると目に見えて周囲の反応が変わるので内心T井さんにもお勧めしてあげたいと思っている。些細なことで人を詰り、不快にさせてしまう人はどうやってもエグゼクティブにはなれない。そういう人はアカデミアには沢山いるし、それが許される数少ない職場の一つでもあるが、仮に大学教員になれなかったら一般社会で生きていくのは難儀するだろう、と思った。是非とも博論を提出して大学に就職して頂きたい。これは皮肉ではなく本心からの言葉で、大学は知能の高い社会不適合者の重要な受け皿なのだ。

 「あなたの感情に私を巻き込まないでください」と吐き捨てたい衝動をぐっと飲みこみ、T井さんの罵倒を聞き流す。自分がスカッとしたいがために彼を余計に傷つけるのは本意ではない。面と向かって言わなかったから、この日記を書いている。昏い衝動に飲み込まれず、人を傷つけずに済んだ自分をほめてあげたい。自分だけが、自分の行いを肯定してあげられる。自分の機嫌は自分で取るしかないのだ。そして、言っていることと矛盾するのだが、私はT井さんが(陰口ではなく)面と向かって「俺はお前が嫌いだ」と言ってきたことを評価したい。舌禍が原因で人の縁が切れることもあるが、言葉を発することで関係性が好転することもある。彼にとってその一言はどうしても私に伝えたかった言葉なのだ。

 彼の人間臭い一面が、少し垣間見えた気がする。