12月13日(木) くもりのち雨

 鳥飼茜の『漫画みたいな恋ください』に影響されて日記を始めてみることにした。

 つくづく他人から影響されやすい人間だと思う。もしかしたら三日と続かないかもしれない。

 朝、注文していた水をゆうパックで受け取って、なんとなく起きていたのでそのまま六本木の「文喫」に行く。私は書店員なので「敵情視察」の意味も込めていたのだが、現場に着くと普通にはしゃいでしまった。書店とは思えない、ホテルのようなカウンターがまぶしい。受付のお姉さんに「1620円です」と言われ、入場料を支払う。

 階段を上がると、コートと手荷物をロッカーに預けて、冷たい煎茶を受け取る。個人的に文喫のいちばんいい所は「手ぶらになれること」だと思う。手ぶらで書架を歩き回るのは楽しい。上着と手荷物が無いだけで、体験の質が根本から変わってくる。いくつか本を手に取って席に戻ると、店内の動線設計が絶妙にうまいことが体感できた。

 まず、客の目的に沿ってグループの棲み分けができている。「喫茶室」のテーブル席は、ご飯を食べている人が居着いているので、本を読みたい人は隣の椅子が点在しているエリアに足が向かう。テーブル席の物音や話し声は比較的入ってこない。また、「選書室」から別方向へ伸びている通路上に「閲覧室」というのがあって、ここにはPCで作業をしたい人が居着いている。「喫茶室」のグループと動線が混線しない配置なのが巧い。物理的に「喫茶室」から離れているため、静寂が作られやすい。個人的に、本を読んでいるときに隣で作業をされると気が散ってしまうので、作業目的の人が別の場所で固まってくれるのはありがたい。「閲覧室」の突き当たりは「研究室」で、その場にいると声のトーンを落としたくなる。こうした、人の行動を自然と誘発する設計が「デザイン」だな、と思った。

 もう一つ推したいのが、「席を移動していい」ということ。入場する権利に対価を支払っているので、「空間に居ること」が公認されている。最初に選んだ座席に縛られる、ということがない。本棚から本を取ってきて座って読み、不要な本をワゴンへ返却して書架へ戻る、というサイクルを繰り返していると、キープしている本の量は増減していく。持ちきれないほど山積みになれば一つの場所に居つくことになるし、抱えた本を捨てて身軽になれば席を転々とすることもできる。隣がうるさくなればどこか他の場所へ移ればいいし、お腹が空いたらテーブル席でごはんを食べてもいい。

 そうやって本を選んでいると、どうしても手元から手放せない本が何冊か出てくる。

 ここは本の「定位置」が決められていないので、次に来たときに探そうとしても、見つけられるという保証がない。加えて、一タイトルにつき一冊ずつしかないので、いま手に持っている「この子」をリリースしてしまったら、他のお客さんにキャッチされてしまうかもしれない。こう考えてしまう時点で、すでに愛着が湧いてしまっている。こういうふうにして「買う本」を選べる本屋ができたのはいいことだ。本を選ぶには根気がいる。こんなにじっくりと腰を据えて本を選べるなら、「本を選ぶ対価」として1620円を払うのは悪くない。

 鳥飼茜の『漫画みたいな恋ください』(筑摩書房)と、LiLy作、ナオミ・レモン絵の『青春、残り5分です。1』(カエルム)を買って店を出た。

 銀座のリーフルに寄ってダージリン オータムナル ギダパール農園 チャイナスペシャル DJ-115(2018)を買い、今日の職場へ。毎週木曜日は大学図書館で夜間スタッフのバイト。

 同僚のT井さんから、うちの研究室の先輩が今年度博論提出予定だという話を聞く。最近先輩に会ってなかったので、知らなかった。先輩の近況を他の研究室の院生から聞くことになるとは。先輩と6月に話したときは原論で博論を出すのは難しいかもしれない、という話を聞いていたが、サブテーマのステュアート研究で論文をまとめることにしたらしい。実はステュアートのほうが順調なようで、今年も査読論文が通って学会誌に掲載されている。傍目からみてもステュアート研究のほうが捗っているのに、なぜ博論は原論に拘るのか聞いてみたことがある。「O(指導教員の苗字呼び捨て)に論文を見てもらわないと、ウチが研究している意味はない」と先輩は言って、当時はそのマインドに感銘を受けたのだけど、あっさり三年で修了できるプランに変更したらしい。なんだかわからないけれど、少しがっかりしてしまった。案外、割り切りで器用に世を渡り歩いていける人のほうが、すんなり大学に就職していくのかもしれない。

 話をしてくれたT井さんは博士課程に8年いるオーバードクターで、研究の話以外に共通の話題はない。なんとなく話しにくくて距離感が掴めずにいたけど、最近彼の人となりが少しわかってきたような気がする。たぶん、根はとても生真面目な人。

 建物を出たらぽつぽつと雨が降り始めていたけど、なんとなく先輩と会いたくない気分だったので研究室に傘を取りに戻ることはせず、そのまま歩きだす。

 通りの向かいにある家系ラーメンで食事をとると雨が止んでいて、興が乗ったのでそのまま歩いて小石川の Pebbles Books まで行くことにした。Pebbles Books は去年閉店したあゆみBOOKS小石川店の元店長が選書を担当する店で、うちの店長もちょっと意識している人物らしい。店内に入るとまずピーター・シンガーの『功利主義とは何か』と目が合う。なるほど、ガチガチの選書書店だ。けれど、この本の底本はOUPの Very Short Introductions(VSI) のシリーズで、こういう本をもっともらしく売ろうとするところが書店員らしい。研究者なら概説書は概説書として扱う。どれだけ権威があろうと、概説書はそれ以上でも以下でもないのだ。

 二階に上がると、もう少し硬めのジャンルの棚が広がっていた。部屋の中央に背中合わせに置かれた棚と、壁面を埋める棚が少々という、こじんまりとしたスペース。壁際に椅子が一脚置かれている。棚から発せられる圧が強く、「こういう本を読みなさい」という声が聞こえる気がする。書棚から「コンテクスト」を読み取る、というのは思いのほか疲れるらしく、息苦しさを感じてしまった。本を手に取るテンションまで自分を持っていくのに、結構な時間がかかった。硬めの選書書店というのは、こういうものなのかもしれない。

 何も買わずに店を出て、帰る道すがら「書店とは何か」を考える物思いにふける。

 書店とは第一に本を売る空間であるが、本を選ぶための空間設計が存外に大切なことが身をもって体感できたように思う。リアル書店には紙の本だけでなく、それを選ぶわれわれの「本を選ぶ身体」というものがあり、本を選別するムード作りに身体性という観点が抜け落ちていたことを痛感した。いかに身体を伸ばし、集中を高め、思考を研ぎ澄ませていくことができるか、という観点である。本を売る場所には、モノを考えられる空間がなくてはならない。「文喫」はそれを極端な形で推し進めた業態なのかもしれない。

 おそらく、本来的に選書書店と喫茶の融合は相性が良い。ガチガチの選書棚からは、適度に「逃げられる」空間が必要なのだ。棚の前に立って、立ちながら本のページをめくって本を選別するには、ハイコンテクストな選書棚は「重すぎる」。最初から買う本が決まっているなら用は果たせるのだが、そうでなければどこかで集中を切らしてしまう。買う本を決められる人であっても、より思考を研ぎ澄ませられる空間に身を置けるなら、それに越したことはない。

 書店の生き残り策には二つの方向性があって、一つはローコンテクストであること。いわゆる「金太郎飴書店」と呼ばれるシステム化された書店で、棚から受ける圧が少なく「考えずに本を買う」というスタイルに合った本を売るには向いている。そして、もう一つが今日体験したような「本を選ぶための空間作りに特化した選書書店」なのだろう、と考えた。単に本を陳列するだけで本屋が生き残れる時代はとうに過ぎている。特に売上を作るのが難しい選書書店の場合、"入場料制"というのは粗利の小さい本を扱う本屋にあっては、ブレイクスルーとなる可能性を秘めている。私は前者の「金太郎飴書店」に分類される本屋に勤めているが、後者の存在はきっと競合しない。突き詰めていけば、どちらの業態も共存できる、と思った。