12月24日(月) 断章2

「告白」が無かったことにされてしまった。間違いなくメッセージは「伝わった」し、万一拒絶されても相手の側でコメントを消すことができるプラットフォームを選んだつもりだったのだけど、返信を貰った上でほとぼりが冷めてから「無かったこと」にされてしまうのは悲しい。本来そういうことを言える立場ですら無いし、相手の立場も重々判ってはいたつもりだったのだが、それでも悲しいという気持ちが生まれてしまう。感情に「正しさ」など無いのだな…。

Rはあるカメラマンに写真を撮られている。私にはカメラマンの素性が(プロかアマか)わからないので、単に「ツイッターカメラマン」とするが、私はツイッターカメラマン氏の撮る写真が嫌いだ。単純に技術的に下手というのもあるのだが、相容れないのはモチーフの選定である。私も写真を撮るのだが、「女を撮る」ということに関して、決定的にスタンスが相容れない。

カメラマン氏の撮る女はさながら「モノ」のようだ。ファインダーを覗くカメラマン氏の眼は女をモノとして見ていて、撮られる女は服従するか抵抗するかの選択を迫られ、拒絶の意を示している。情事を匂わせる背景の「女を支配する」写真を、軽薄な言葉と共にインスタグラムに上げる…これだけでも反吐が出る男なのだが、そうやって「コレクション」している女の一人に、Rが出演してしまう、という光景がとても嫌だ。Rはそういう男に写真を撮られてしまう女なのだ、ということが私にとっては酷く軽蔑に値する。

好意を寄せている相手が他の男に写真を撮られていること(さらにいえばセックスをしているかもしれないこと)に嫉妬している、という気持ちを隠す気はない。しかし、それ以上に「表現として」のRの写真に、深い失意の念を覚えるのだ。私はこうした軽薄な写真がとても嫌いなのだと思う。そこにカメラマンの有名/無名の区別はない。

以前、渋谷のBunkamuraにソール・ライターの写真展を観に行ったことがある。そこに展示されていたのは、広告写真を撮ることを辞めてアパートの一室で女とボヘミアン生活を送っていたライターの写真で、「評価されること」から逃げた写真は表現を一段落も二段階も後退させるのだな、と独りごちた。女と自堕落に過ごしている男の撮る写真は、酷く醜い。ライターだろうが、カメラマン氏だろうが、私にとってはどちらも反吐が出ることには違いがない。私はこういう写真が嫌いだ。写真に対する一つの明確な考えを持つことができた、という点でソール・ライター展は私の表現の糧になったのであるが…。

ここで私がカメラマン氏に問いたいのは、「被写体が男でも同じように撮れるのか?」ということである。相手が男だろうと、ベッドの上に転がして、服従させて、一人の男の体を撮ることができるのか、という問いである。それができないのであれば、女をそのように撮っていい謂れはない。撮影者と被写体の間にある「権力勾配」を、"男が女に向ける暴力性"というごくありふれた形で写真に表出させてしまうだけの表現者なら、たとえ被写体がRであっても、私にとっては見るに値しない凡庸な写真である。私はRの写真だろうと何だろうと、一鑑賞者として、絶対に評価しない。

Rはなぜこの男に写真を撮られているのだろうか。カメラマン氏は数多の仕事を任されているプロのようには、とても見えない。百歩譲ってこの男がRの恋人ならば、まだいいのである。好きな男に写真を撮られる喜びは、私にも共感できる。しかし、カメラマン氏にはどうやら本命の恋人がいて、"表現のため"に女の裸身を撮るクズで、そんな男が撮る「数多の女たち」の一人として、Rは写真を撮られてしまっている。なんだかRのことが憐れに思えてきてしまった…。カメラマン氏はもしかすると紳士な男なのかもしれないが、きっとRのことを一途には愛さないのである。Rには一途な愛を受けて、幸せになって欲しい。たとえRを愛し、付き従う者が私ではなくとも。

私にとってのいまのRは、クズ男に写真を撮られてしまうような軽蔑に値する女ということ以上に、痛々しくて見ていられない、という気持ちが優っている。そんなRをみている私も日々消耗してしまって、もはやどうにもならない。以前とは違って観劇の費用を捻出することすら四苦八苦する有様で、とても劇場に足を運べそうなメンタルではない。「告白」の返事を貰って一度はRの稽古の成果を見届けようと胸に誓ったけど、私の死に物狂いの言葉が消されているのを見て心が折れてしまった。些細なことで不信感が募り、疑心暗鬼になってしまう。今回の公演を観に行くのは無理そう。ごめんなさい。