仕事を辞めた

 7月1日に会社を辞めた。今度は2カ月続いた。去年12月に就職した会社は10日で辞めたので、大きな進歩だ。誰になんと言われようと、自分だけはこの2カ月のがんばりを褒めてあげたい。

 去年12月に就職した会社のことから順を追って書き記していきたい。面接では人材派遣会社の管理社員での採用と聞いていたのだが、実態は物流会社だった。折りコンとジェラルミンケースで毎日数千台送られてくる携帯端末を検品し、メーカーごとに発送する物流拠点で、自社のパートさんたちを管理する仕事だった。管理、とはいっても仕事の実態はパートさんたちの手が行き届かないところを社員自らが率先して作業に従事し、汗水たらして労働をすることで全体の工数を削減するという内容であった。端的にいって地獄。稼働するレーンに携帯端末を一台ずつ流していく作業に従事していると、小一時間くらい経過したところで頭がおかしくなってくる。「こんな作業をするために東大まで出たのか……」という驕りにも似た感情が自分の中で堆積してくる。それに加えて、「汚れてもいいスーツ」とスニーカーを準備してほしいと言われて心が完全に折れた。「汚れてもいいスーツ」って何だよ。スーツは私服にエプロンのパートさんたちと差別化するために必要なユニフォームで、現場では作業着以外の何物でもなかった。

 そうこうするうちに早出出勤が始まり、パートさんが出勤する前の朝の荷受け作業に従事することになって、ほったらかしで一人荷受け場に立たされた上に、空になった折りコンをパレットに積んでいくひたすら体力勝負の肉体労働が嫌になって10日で会社を辞めた。2万5千円で揃えた「汚れてもいいスーツ」とスニーカーは二日しか着なかった。

 次の会社はハローワーク経由で、会社を辞めてから2週間で内定が決まった。丸の内にオフィスを構える会社で、SES派遣で客先へと派遣されるITエンジニアとしての採用だった。しかし内定承諾の期限が迫る二月上旬に体を壊してしまい、消化器内科を受診して胃カメラを飲んだところ、逆流性食道炎慢性胃炎との診断がくだった。立っているだけで嘔気に見舞われ、胃の内容物こそ吐きはしないものの、断続的におえおえとえずく状態が数カ月続いた。幸いにも社長は優しい人で、結果的に5月1日まで入社を待ってもらえることになった。社長のことはいまでも好きだ。けれどこの会社も業務内容がいまいち肌に合わなかった。

 最初の一カ月は丸の内オフィスに出社して初期研修を受けた。研修とはいっても名ばかりで、プログラミング言語の習得や業務にまつわる研修はなく、ひたすらビジネス動画とセミナー資料をみて所感の提出がもとめられる日々が続いた。創業したばかりの会社で、研修担当の取締役にプログラミングスキルがなかったのである。課題とは名ばかりのレポート作成作業もこたえた。引用元の出典を明記し、一つ一つ注釈をつけていくアカデミアで培った習慣がごそりと抜け落ちるほど、でたらめな作業指示だった。この一カ月で膨大な量のビジネス文書に触れたが、どれもこれも誤字脱字が酷く、「世間はこういう水準で物事がまわっているのか…」と唖然とする日々だった。

 六月に入って、社内の人が作ったプログラムのテスト業務が回ってきた。これも早々に堪えた。一日五時間も七時間も同じテストプログラムをいじって検証していると、頭がおかしくなりそうになる。加えて、テストがひと段落すると次の更新ファイルが送られてくるまでやることがない。管理部に「空き時間にオライリーの本でプログラミング言語の勉強をしてもいいですか?」とお願いしてみたら、「そういうことは業務時間外にやってほしい」とやんわりと断られてしまった。この件で一気にモチベーションが保てなくなってしまった。テスト作業自体はスキルシートにも書ける立派な業務だが、プログラミング言語に触れられなければプログラミングのスキルは身につかない。また、業務時間外に自主的に勉強するモチベーションも湧かなかった。その日から、テスト業務のない時間は椅子に座ってインターネットサーフィンをしているだけの日々が続いた。ネットサーフィンもたいして興味のある話題もなく、「終業まであと3時間もあるのか…」といった持て余した暇が徐々に苦痛に変わっていった。これならまだ虚無のレポートを提出している日々のほうがマシだった。意味がないとはいえ、課題を与えられていた日々のほうがまだやることがあった。そうして私は退職届を会社に提出したのである。

 端的にいって、私は労働に向いていない。物流会社は体力的にしんどくなって辞めたが、週五日一日八時間座ってインターネットサーフィンをしているだけの仕事も耐えられなかった。一体どんな仕事であれば続けられるのだろう。仕事を辞めて3週間が経った。未だ次の仕事探しはしていない。