Yについて

 ウティット・ヘーマムーンの「心焦がすサイゴン*1を読んだ。恋人と愛人の間で揺れる男・トムと、トムの話を聞く「友人」の男・メン。ホーチミンを放浪する二人のタイ人の「友情」が描かれている。政治的思想の対立から一度は解消した友人関係、しかしサイゴンへ旅立ったトムのあとを追うメンの行動から、二人は失った友情を取り戻していく。トムがメンに話す性愛の生々しさと、ベトナムの政治的分断が遺した痛々しい歴史の爪痕。それらの"傷"のイメージが交錯する、二人の「傷心旅行」の情景が美しい作品だった。そんな物語を読んでいたら、ふとYのこと*2を思い出した。

 Yは私の大切な「友人」だった。黒のボブに長袖のワンピースを着てると一見印象に残りにくいが、見かけの印象よりも浅黒い肌をしていて、小柄な女性である。イスラーム世界へ強い関心を寄せる、勉強熱心な姿がとても印象に残っていた。Yのことを一言で形容すると、"エスニック"になるのだと思う。顔立ちや肌の色があまり日本的ではなかった。本人は「離婚家系で、20になったときに実父と顔を合わせた」と話していた。直接尋ねたことはなかったが、アラブ人か、またはイスラム教徒が多数派を占めるインドネシア、マレーシア系のハーフなのではないか、と想像したことがある。イスラーム世界に強い興味関心を示しているのは、自らのルーツを探る知的探究なのではないか、と側から見ていて感じるほどだった。

 私はYの肌の色が好きだった。

 Yの全裸は美しかった。肌を焼いてできるメラニン色素の色とはまた違う、琥珀色の肌。下着を脱いでも境界線のない均一なトーンが、単なる日焼け跡ではないことを物語っている。ベルベットのようになめらかで、鈍い光沢のあるアンバーの肌が、とにかく美しかった。その黄褐色が、いまも脳裏に焼きついて離れない。本人は「地黒なのがコンプレックス」と言っていたけど、私はYの黒く美しい肌への執着で、頭がおかしくなりそうだった。*3

 身長は150cmなかった*4と思う。体重も、もしかすると40kgなかったかもしれない。肩幅のない、いまにも折れそうな小枝のような両腕で、皮膚が薄くて胸に耳をあてるとドクンドクンと脈打つ心臓の鼓動が聴こえる。私はYの薄い胸に耳を当てて、彼女の心音を聴くのが好きだった。お腹は鍛え上げられていて、引き締まった腹筋があった。尻は無駄な肉付きがなく、しかし光沢感があってなめらかな曲線を描いている。そして、大人の女性にはおよそ似つかわしくない、少年のようなふくらはぎ。その曲線の少年っぽさと少女趣味なフリルの靴下のコントラストに、私はどうしようもなく欲情した。逆説的だけど、私は女性の体の「少年らしさ」に興奮してしまうらしかった。

 挿入のない性交渉を「セックス」とみなして良いのなら、私はセックスしてからYのことを好きになってしまった、のだと思う。それまでYに恋愛感情は無かった。ただ、友人として、得難い人物だと思っていた。それがセックスで壊れてしまったことが悲しい。男女の「友情」がセックスで壊れてしまうなんていかにもありきたりで、陳腐で、物語にすらならない。Yと友達で居続けるために、私はどうすれば良かったのだろうか。そんなの決まっている。「変わらない」態度で接し続けることができればよかったのだ。それができず、私がYと肉体関係を持ってから、執拗にセックスを求め続けてしまったことが間違っていた。私はYの体に夢中で、Yの尊厳を犯してしまっていることに気が付かなかった。それらを除けば、私とYの関係は、それぞれお互いに「間違って」いて「悪かった」部分があるのだと思う。どちらか一方が悪者でもなければ、悪者になりきれるわけでもない。

 ところで、私のYへの「友情」は、いつから「恋愛感情」に変わっていってしまったのだろう。Yの好きだった所を挙げていこうと思う。Yは勤勉でとても真面目な人だった。有り体にいえば「ガリ勉」だった。テキストで話すと妙に文語体になる所も可笑しかった。私はYのそういう所が好きだった。私は「ガリ勉な人」が好きだ。それは自分が勤勉さを持ち合わせていないからでもある。真面目に努力することができて、それでも要領がよくなくて、努力の結果がある水準までで止まってしまう。そういう不器用な人をとても愛おしく思う。そして、よく勉強しているということは、それだけ話の引き出しが多いということでもある。Yとなら、時間が許す限りいつまででも話をし続けることができた。本郷三丁目のスタバが閉まっても話し足りなくて、東大前駅の改札横で終電まで話し続けた日のことは下記の日記にも書いてある。

12月30日(日) 晴れ - 日記

この頃にはもう、Yへの感情は恋い焦がれる恋情に変わってしまっていた。今更Yへの恋情を書き連ねても仕方がない。良かったことだけじゃなくて、傷付けられたことだって無数にある。ただ、Yから施してもらった数多くの恩を思い返すと、とてもでないけどYのことを誹謗中傷する気にはなれない。Yは本当に優しかった。ただ、優しさの「施し方」を間違えていて、残酷だった。それだけなのである。冒頭で挙げた短編とは違い、私とYとの間で解消された友人関係は、もう取り返しがつかない。

 

(続き→)Yについて その2 - 日記

*1:ウティット・ヘーマムーン「心焦がすサイゴン」福冨渉訳 (佐々木敦編『ことばと vol.1』書肆侃侃房、2020年、222-233頁所収)

*2:ある日のYとのこと: 2月26日(火) くもり - 日記

*3:Aと出逢う約半年前頃の出来事。 Aについて - 日記

*4:いつも家に来るときに10cmはありそうな厚底靴を履いてくるのがいじらしくて大好きだった。

Aについて

 元恋人の写真をPCのデスクトップ背景に設定している、と書いたらギョッとされるだろうか。いまも未練たらたらというわけではないし、性的な写真でもない(※元恋人との間で撮った写真で、性的なものは一枚もありません)。でも、元恋人・Aの顔を見ていると心が落ち着くのである。ワイパックス錠0.5mgを1錠飲んだときに似た鎮静作用がある。

 写真は、2017年3月14日に撮ったRAWから、2枚選んだもの。一つは遠くからこちらを振り返って興味なさそうにツンとしているちょっと不機嫌な顔。もう一つはアップでこちらを見て笑っている顔。

 私はAが笑ったときに、顔がクシャッとなる感じが好きだった。本人はコンプレックスだったそうだけど、「破顔する」という表現がしっくりくる。その笑顔を写真で見ていると、私はAのことが好きだったのだなあ、という感慨が湧いてくる。写真を撮ったときにAが「笑かさんといてください」と言った声のトーンまで、昨日のことのように覚えている。私は好きになった人の顔を好きになる。だから、Aの顔がとても好きだった。不機嫌な顔をみると愛おしくなるし、笑ってる顔をみると心がやすらぐ。私にとってAはそういう恋人だった。

 私はAのことを未だ引きずっているけど、あなたがそれ以上に苦しんだことも知っています。

 

 新しい人と幸せになって欲しいと思う。

 

 色々と思う所はあるけれど、今言えることはそれだけかな。Aについてはまた改めてちゃんと書きたいと思う。忘れることではなくて、書くことで過去を乗り越えていく。パックリと開いた傷口を縫い合わせて、かさぶたにするために書く。もう大丈夫なのだと。思い出しても打ちのめされないと。でも写真だけはどうしても消すことができなかった。ごめんなさい。私が撮ったあなたの写真は最高に可愛くて、素敵だった。ただ、それを伝えることができなかったことを、いまもずっと悔やんでいます。メンタルが落ち込んでいるときに時々見返してしまうことを、どうか許してください。

 

 

(※本人の同意なく第三者に見せたり、ネットにアップロードしたり、公開することは一切ありません。為念)

2020年3月16日(月) 晴れ、強風

 薬が効いているようだ。

 ここ数日頭がシャキッとしていて、活動できている。気力減衰も無くなった。日中は布団から起き出して自室で作業をこなし、日が暮れ出したら外出して喫茶店で本を読む。そんな生活をここ三日ほど続けられている。いま処方されている薬は、

 これに加えて、不安になったときや夜寝る前にワイパックス錠0.5mgを飲むことで、なんとかやり過ごせている。

 私の学校(東京大学)には、学生と教職員が利用できる「保健センター」という研究医療機関があり、学生は無料で医師の診察を受けることができる。かかるのは薬代の実費だけ。私の場合、月に2000円ほど。予約を取れば一週間に一度受診することができ、民間の医療機関みたいに待たされることもない。

 今回処方されたエビリファイは「非定型抗精神病薬」と呼ばれる種類の薬で、非定型抗精神病薬は主に統合失調症の治療に用いられるが、双極性障害うつ状態の改善にも効果があるとされている。いま私が診てもらっている医師は慎重な人で、初診では「適応障害」という診断。それ以上は経過観察で様子をみて判断、というスタンスらしい。前の先生はカルテに「うつ病」と書き記していたが、処方薬が双極性障害ガイドラインに沿った第一選択薬のリーマス錠だったので、抗うつ薬は勧めてこなかった。リーマス錠は採血と決められた時間間隔で薬を飲むのがつらかった。血を見ると卒倒してしまうので、採血はいつもベッドに寝かせてもらって、血を見ないように目を閉じてる間に抜いてもらっていた。なので、今回は別の薬を試せないだろうか、と医師に相談したのが地獄のはじまりだった。

 最初に提案してもらったのはオランザピン錠2.5mg。これは異様な食欲と日中起きてられないほどの眠気が出る薬で、私には合わなかった。この薬を飲んでた一週間、布団で眠っているか、外でバクバクご飯を食べているか、そのどちらかしかないという状態。次の週に出してもらったのはルーラン錠4mgで、これもキツい薬だった。飲み始めの二日は何事もなかったのだが、ある夜服薬した直後に脚がソワソワしだして、自分の意思とは独立して動き出そうとする。家に帰ってもお風呂に入ってもソワソワがおさまらず、あまりの不快感に発狂しそうになった。翌日センターの薬剤師に電話で相談したら「アカシジア」が疑われますね、と言われた。アカシジアは非定型抗精神病薬でよく見られる副作用の一種らしい。ルーランで出るようだと厳しいですね、とのことだったが、オランザピンでは出ない。

 その日のうちに別の医師の診察を手配してもらって、つなぎのオランザピン(とアカシジアを抑えるアキネトンという薬)を処方してもらった。そこでアドバイス頂いたのが、オランザピン錠2.5mgを割って半錠で服用するという方法。これだと食欲がぎりぎり我慢できるレベルにまで抑えられ、眠気も日中なんとか仕事がこなせるかな、くらい。それでいて効いてる感じもする。次の診察ではオランザピン半錠と、ベンゾジアゼピン抗不安薬メイラックスを出してもらった。メイラックス半減期が「122時間」と長く、長時間に亘って血中濃度を保っていられる薬。ゆっくり効きはじめ、頭がぼんやりする感じが一日中続く。メイラックス錠1mg単体だと効きが弱く、オランザピンと併用すると眠くて起きていられない。どうにも八方塞がりで、「そろそろ抗うつ薬を試してみますか?」と言われて、その前に最後に提案された非定型抗精神病がエビリファイである。処方箋をもってセンターの薬局に行ったら、この前相談した薬剤師さんが苦笑いしていた。曰く、エビリファイアカシジアの報告が多い部類に入る薬らしい。けれど試してみようと思ったし、実際その価値はあった。これが先週木曜日の話。

 メイラックスエビリファイを併用すると、布団から動けなかった気力減衰がなくなって、起きてるときに考え込んで、思い詰めてしまうこともなくなった。気力が湧きすぎてしまうということもなく、普通に日常生活を送れている。いまのところアカシジアも出ていない。

 ここ数日はずっと就職活動をしていた。新たに十社ほどプレエントリーして、メールで送られてきたマイページの登録を一つずつこなして、ESの提出締め切りや適性検査の受験締め切り日を就活手帳に書き写していく。就活手帳といえば、ES対策本と一緒に土曜日に買いに行くことができた。これも大きな前進。今週は二社ESの提出をして、SPI3テストセンターの問題集→玉手箱の問題集という順番で適性検査対策をしていく予定。そして、瑠花ちゃんの出演する舞台『イディア』を観に行く。

 追い風が吹いている。無理せず全部、ゆっくり着実にこなしていくぞ…!

自分の欲望と折り合いをつけるために

 自らの欲望と向き合う。欲望を赤裸々に書き出すということ。もしも瑠花ちゃんに読まれてしまっても、本人を傷つけてしまうことがないようによく考えて書く。

◼︎瑠花ちゃんへの好意から切り離すことのできない「性欲」について

 瑠花ちゃんとセックスしたい、という表現は正しくない。言葉にするととてつもなく恐ろしくて身震いがする。瑠花ちゃんの体を想像して自慰をしてしまうことはあっても、行為までは恐ろしくて想像できない。恐ろしいということに加えて、もう一つの理由はセックスにおける行為の内容は、関係性の力学によって決まると考えているから。

 真に「対等」なセックスは、互いに暴力性を直視しながら、けれど"楽しみ"ながら、力関係の優位・劣位がなめらかに入れ替わっていくものなのだと思う。そうだと仮定すれば、瑠花ちゃんとの関係性は現状「芝居を介した」もので、関係の蓄積はあっても、「役者/ファン」という対等ではない立場に置かれている。私が一方的に「親友」のような心地良さを感じていても、瑠花ちゃんがそう思ってくれている保証はない。むろん、プライベートでの関係の蓄積もない。だから瑠花ちゃんとのセックスを想像しようにも、そこでの具体的な「駆け引き」、言い換えれば「主導権の取り合い」がイメージできない。瑠花ちゃんのことが大切すぎて、自分の妄想のなかでさえ、欲望のままに恣(ほしいまま)にすることができない。

 私が本当に欲望しているシチュエーションは、「同じ布団に入って、見つめ合って、他愛のない話をしながら髪を撫でる」。これなのではないか、と思う。髪に触れることを許される親密な関係になりたい。そして、眠れない夜を語り明かして、瑠花ちゃんが寝落ちするまで見守りたい。それが私の喜びであり、妄想のなかで欲望するもの。

 あとね、『セーラ』の面会で瑠花ちゃんにぎゅっとされてたファンに嫉妬した。私もぎゅっとされたい。女の子扱いされたい。優しく慈しむようにハグされたいの。そんなふうに大切に触れられたい。

 親密な関係を結びたいという欲求も、私は「性欲」にあたると思う。

■それで、どうすればいいのか

 それがわかったら苦労しない。それでも、私は私の中の欲望を自己分析することで、瑠花ちゃんとの関係性を見つめていきたいと考えている。

2020年3月10日(火) 雨

すべて失ってしまった。

研究も、仕事も、職場の人間関係も。

私が一方的に大切な友人だと思っている人は「すべてを失うなんてことはないですよ。」と言ってくれたけれど、空から降り注ぐ土砂降りの雨をみていると、絶望がよみがえってきてどんどん気持ちが落ち込んでしまう。

今日、応募していたアルバイトの書類選考落選の通知を受け取った。なんにしても、生活のために仕事を探さないといけない。

さて、何から話せばいいだろうか。本屋の仕事は辞めた。時給の良い大手法律事務所のアルバイトに移った。それから事実上の解雇宣告を受けた。本屋を辞めて事務所がある大手町のオフィスで働き始めた頃から、新しい仕事には納得していなかった。情報システム関連の部署で、元々ハードウェアに通じていたこともあって知識面での不安はなかったけど、自分が携わっている仕事をどうしても面白いと思えなかった。そうした不満が上司への態度に表れていたのだと思う。些細な言い争いから関係がこじれて、先月とうとう契約を終了すると告げられてしまった。「あなたは職場には必要のない人間です」と面と向かって言われるのは堪える。このショックをどう伝えたらいいのかわからない。何よりつらいのは、自分が職場で人間関係のトラブルを起こしてしまう人間だということ。一度落ち込むと際限なく自責の念に駆られる。ひとしきり絶望して、布団の上で放心して、そんなときにぼんやりと考えるのは、推しの”R”こと、瑠花ちゃんのことである。

瑠花ちゃんへの想いは落ち着いた。

瑠花ちゃんに会いに行っても、前みたいに面会でがちがちに緊張してしまうことはなくなって、慈愛の感情が湧いてくる。瑠花ちゃんの顔を見ると「落ち着く」という感覚が強い。直接対面しても、リラックスして話をできるようになった。瑠花ちゃんのことは大好きだけど、それがいまも恋愛感情なのかどうかはわからない。むしろ恋愛感情は男性に対して抱く感情のように感じる。恋愛対象は男性なのに、性的欲求は女性に感じる、というセクシュアリティの「ねじれ」。前にもまして自分自身のセクシュアリティがわからなくなってしまった。

思考の整理のために、一旦自分の性指向を「バイセクシュアル」と仮定してみる。女性に恋愛感情が持てないのは、まだ瑠花ちゃんに対して恋愛感情を抱いているからかもしれない。前に話したYや、元恋人のAのことを引きずっているからとも考えられる。それゆえ、「他の女性」に対して、恋愛的な"好き"の感情を抱くことができない、とする。一方で、男性に対してはこれらの感情のもつれがないため、ごく自然に"ときめく"ことができるのかもしれない。しかし男性とは性交渉の経験がない。それゆえ、男性とセックスできるかどうかわからない、という不安が魅力的な男性への欲望を押し留めているのだと思う。うまく言語化することができないけど、私のなかで男性への性的な欲望は、女性へのそれとは違う。「ときめく」ということばがいちばん私の感覚と近い。他方で女性への性欲は、もっと"自動的"で、身体が勝手に反応してしまう。この自制の効かなさが、自分を苦しめている。

私にとって、性は"苦しい"。この後ろめたさから逃れられる方法がわからない。

瑠花ちゃんへの「好き」から、この後ろめたさを取り除くことができない。瑠花ちゃんとセックスする妄想で自慰をしては、果てたあとに自分はなんてことをしてしまったのだ、という後悔で打ち拉がれてしまう。好きな人と触れ合いたい、ただそれだけなのに。でも、いざ瑠花ちゃんと会うとこうした邪念がまったく湧いてこないのが救い。瑠花ちゃんに逢えるだけで幸せが溢れ出してきて、他の何もいらなくなる。

「どう思う ?

逢いたいときに選べて逢えたら,うれしい ?

芝居を介さずとも」

瑠花ちゃんのTumblrに書かれた文言について考える。逢いたいときに逢えたらうれしい。でも、以前のミスiDカフェみたいな形式のイベントは苦手。話したいことがたくさんありすぎて会話に詰まってしまうし、他愛のないことを話すには周りの目が気になりすぎる。芝居の感想を、芝居をみた直後に話せる面会は、無理がない。無理がないけど、いつも話し足りなくて、もっと話すことができたらいいのにって高望みしてしまう。落ち着いて、瑠花ちゃんの目と呼吸をみて、ゆっくり話せる場ができたら私はうれしいです。そして瑠花ちゃんの話も、少しずつでいいから私は聴きたい。

こうして書き出してみると、やっぱり瑠花ちゃんのこと好きだな。好き。大好き。それが恋愛感情であろうとなかろうと、大した問題ではないのかもしれない。私のなかでいちばん大切なのは、瑠花ちゃん自身の納得。瑠花ちゃんが望むことを叶えてあげたい。

瑠花ちゃんが私を含むファンと逢いたいなら、事務所を通して企画してもらえたらまず間違いなく私は参加するし、あるいはこれは私の思い上がりに等しい妄想だけど、もしも瑠花ちゃんがプライベートで私に逢いたいと願ってくれるなら、私はそれに報いたい、と思う。いつか「違反になってしまう」と言われたから、私からは持ち掛けられないし、望むことのできる立場でもないのだけれど。

瑠花ちゃんに逢えるなら、いつでも逢いたい。でも己のために「表現すること」を追求する私の推しが、"ファンのまま"である関係を私に望むなら、私はそれを望んで受け入れたいと思う。または、いまは芝居に専念したくてファンとの交流が負担になってしまうというなら、表現を追求することに専念してほしい、とも思う。私が瑠花ちゃんのことを好きだと思う気持ちは、どんな関係性であれ変わらない。これからも瑠花ちゃんの嫌がることはしないし、望まないことは避けるように努力もする。そうやって関係をケアすることを継続できたら、すべてを失った私にも「何か」が残るだろうか?

もっと色々なことを瑠花ちゃんと話したい。話をしていきたい。SNS越しでも、日常的に言葉を交わしていくことが大事だとわかったから。格好つけたりせずに、些細なことでもコミュニケーションを試みることが大事。それで、関係性に曖昧な領域ができてもいいと思う。線引きをすることは大切だけど、線引きだけがすべてじゃない。私が瑠花ちゃんに望む関係性と瑠花ちゃんが私に望む距離。そこに、どのように線を引くことができるだろうか。改めて、自分にできることを考えていきたい。

久しぶりに思いの丈を書き記していたら夜が明けてしまった。これから眠りにつきます。目が覚めたら少しだけ世界が晴れていたらいいな。

「おやすみ 🌕 」

 

2月27日(水) くもりのち雨

職場でMさんに「目が赤くなってるよ?」と言われた。勘が妙に鋭い。続けて「風邪? それとも花粉?」と聞かれたが、なんとなく探りを入れられているような居心地の悪さを感じる。こういうことに関してMさんは恐ろしく聡いので、昨晩泣いていたことを見抜かれてしまったかもしれない。流石、スカウターが振り切れてしまうほどの女子力53万女子のMさん。侮れない。戦闘力があまりにも高過ぎるので、私はMさんに対して常に警戒心を解けないでいる。

「ガスを停められて暖房を入れられなかったので、風邪気味なんです」と、嘘ではないがまるきり真実でもない説明で適当に取り繕ったら、「大丈夫? 心配だよ〜」と余計心配させてしまった。かといって、暖房が無い部屋で過ごす私の孤独や、寄る辺のない心細さをどう表現すればいいのかわからない。この人は「求めさえすれば、欲しいものが得られる」側の人間だろう、とMさんのことをよく知りもしないのに、つらく当たってしまう。自分の狭量さに嫌気がさしてしまった。

2月26日(火) くもり

涙が止まらなくなってしまった。自分がなぜ泣いているのか、もうわからない。こういう日は決まって、Yのことを思い出してしまう。

2016年7月3日、日曜日の朝、ベッドの上で泣いている私の涙を、Yはやさしく拭ってくれた。涙はいちど流れ出すと、堰を切ったように止まらなくなるということを知ったのもこの日。Yが私の上に馬乗りになっているいまなら、首を絞めて殺してもらえそうな気がする。そう思ってYに「このまま殺してほしい」と言ったら、「そんなことしたら、弁護士になれなくなっちゃいますよ」と苦笑いされてしまった。電気を消した薄暗い部屋の中で、遮光カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。そんな光量だったので、Yがどういう表情をしていたのか、いまになってはよく思い出せない。ただ、Yの肌の感触だけが、鮮烈に脳裏に焼きついてしまっている。その日Yに殺してもらえなかったから、いまもこうして、私は生き存えている。惰性で日々を生きている。そのことがどうしてもやるせなく、私にはつらい。

いま画面越しに話を聞いてもらっている人は、私が涙を見せたらそれをやさしく拭ってくれるだろうか? そうは思っても、私は泣き顔を見られていないことに安堵してしまう。これ以上他人に依存するのも、寄り掛かって潰してしまうのも、もう耐えられない。そうするくらいなら独りで死んだほうがマシだとすら思う。それでもいまは、画面越しに掛けてもらった、「生き延びてくれたら嬉しい」という言葉を、少し信じてみてもいいかもしれない、と思った。

ガスを停められてから、ガスファンヒーターの吐く熱が人肌の温度を連想させるということを知る。それがないと、私は眠れない。大切なものは、いつも失ってから気づく。